Festina Lente3

Festina Lente3(ゆっくりいそげ3)は現在進行形。(ゆっくりいそげ 続編)還暦を迎える年から再スタートした日記です。

4日ぶりに布団で就寝

久しぶりの帰省

91011の水木金ほぼ毎日4時間以上残業して、この連休中家人の実家に帰省。
その間、様々な情報錯綜、義母はやや持ち直す兆しありの、
一縷の望みを抱き本日12日土曜早朝、娘を伴い家康公の生地へ。
久しぶりの娘と2人で乗る新幹線、JR乗り継ぎ、
駅の立ち食いきしめん初体験、見覚えのある改札口、
疲れた義弟・義父の顔、家人。

見舞いと状況確認後、娘は一足先に帰阪。
あれこれ思うことは多けれど、一歩も二歩も離れた立ち位置からは
冷静に判断できることも。何もかも社会勉強。
4日ぶりに布団で就寝。

人を見舞うことができて、やっと布団で体を横にしている。
やっと人らしく眠ることができる体制を整えている。
椅子に座ったまま、仮眠をとるのではなく。
なんて皮肉なことだ。
こうまでしないと時間が作れない現実。
それを抱えての浮き世の義理なのだ。
この年、この瀬戸際になって初めてわかること。

そして、家族の入退院を15年ほど見てきたからこそ、
いつの間にか身についた、医学的な情報もここでは役に立つ。
何も知らないで右往左往というわけではないことが。
有難いが、ある意味、皮肉なことだ。

距離を置いて考えることができる人間の立場に、
段取りを語る側に自分がいることが、奇妙でならない。
これが年を取るということなのか。
身内という立場にありながら実際は他人だということなのか。
労りの中に諦め、諦めの中に希望、希望の中に割り切り、
割り切りの中に生活を維持していくための「守り」の感覚。


かつて田舎の祖父が危篤の際、病院に詰めている私達の所へ、
親戚筋の大叔母が差し入れに持ってきた握り飯を思い出す。
「食べられるときに食べておくように」と。
40年ほど前の記憶が蘇る。
どんな時でも食べて、寝て、起きて、生活する。
その姿勢を崩さない。
これを持つことが、大人の感覚、なのだろうか。
そんなことを考えたり、しながら。
夜具の感触を、自分の家の物とは異なる夜具の感触を確かめながら。